生命の実相 谷口雅春著
誤解しないで下さい。私、道徳など微塵も語るつもりも資格も持ち合わせませんので。
ただ、迷った時期にその迷いが消せればと雑多に本を読み漁ったら、斉藤一人さんに出会っただけの不動産屋で、格好つたところでオツムの程度も情けないほどと自覚してます。
以前のブログにも書きましたが、これを読んでるとマーフィーよりも分かりやすく感じます。
著者の読まれた本の数は、常人では考えられないほどのものらしいですよ。
人間とはどういうものなか?がわかるようで、しばらくは読み続けるでしょう。
私程度のものにも非常に分かりやすく、また一人さんの教えの理解もススミます。
昨日、スゴイな!と思ったところを、第4巻から一部引用させて頂きます。
『ルカ伝』第7章にこんな話があります。(著書のまま始まてます)
ある日イエスがシモンという清教徒(パリサイびと・せいきょうと)のところへ招かれていった。この町に一人の堕落した婦人があった。名はマグラレータ。
おそらく娼婦かなんかで、この町で皆が指弾している女でありましたでしょうが、この女がイエスがパリサイ人の家に饗宴に招かれて来ていられることを知って、香(にお)いの高い白檀(びゃくだん)油のはいっている石膏製の壷をもって来て、懺悔の心に泣き濡れながら、イエスの足下に来たってひれ伏し、涙でイエスのみ足をうるおし、頭の髪でみ足を拭き、接吻してその香油をみ足に注いだのであります。
清教徒のシモンはこれを見て『汚(けが)れたる娼婦よ、なにをするか、神はそのような汚れた女の献(ささ)ぐるものを受け給うものではない。またイエスも真に神から遣わされた人ならば、足に触った女がどんな素性の婦人であるかぐらいは霊感でわかりそうなものだのに、そんな汚れた女に甘い態度を示すとはなんであるか』と心の中で思ったのであります。
そこでイエスはシモンの心中を見抜いて、『シモンよお前に尋ねてみたいことがある。返事をせよ。ある貸主に借金をした二人の人があって、一人は五十円を借りている。一人は五百円を借りている。この二人の借金をゆるしてやるとしたならば、どちらの借主の方が貸主をよけいにありがたく思うだろうか』と反問(はんもん)せられた。
そこでシモンは答えて『それはたくさんの借金をしている者の方が、貸主の慈悲深い心をありがたく思うにちがいありません』と答えた。
『そうだ、よけい借金している者のほうが、それをゆるされたことをありがたく思って貸主を愛するが、自分の借金を少ないと思っている者の方は、ゆるされたことをあまりありがたく思わず貸主を愛しないのだ。
お前はわしがお前の家へはいって来たとき、足を濯(そそ)ぐ水をくれなかったけれども、この女はわしの足を涙で洗い、髪毛(かみのけ)で拭いてくれた。
お前はわしの足に接吻をしてくれなかったけれどもこの女はわしの足に接吻してくれた。
お前はわしの頭に香油を濯いでくれなかったけれども、この女はわしの足に香油を濯いで赦(ゆる)されんことを願ったのだ。
このように罪の多いと自覚するものほど感謝の念も深く、神を愛することも深いのだ』こういって女の方を振り向き『なんじの罪は赦された』と厳(おごそ)かにいわれたのであります。
赦されるという意味
この話しについて知るべきことは、清教徒のシモンは救世主に対してぜいたくなご馳走を提供して、自分は本来そんな罪深いものではない、これだけ救世主を饗応すれば、その価(あたい)として自分の小さな罪ぐらいは当然赦さるべきものであるというような、安価(あんか)な、多寡(たか)を括(くく)った、神の赦しを見くびったような、虫のよい傲慢な気持ちがあることであります。
真宗でいえば雑業雑修(ぞうぎょうざつしゅう)といって嫌っているところの小善(しょうぜん)に誇(ほこ)る心があるのであります。
この傲慢(ごうまん)な気持ちがある間は赦されないー赦されないといいましても、神ご自身の方から人間の態度が悪いから赦すとか赦さないとかいうような、ケチな考えをもっていられるわけではないのでありまして、人間自身の方から罪の正体を見きわめず、自分の『神の子』なる生命の実相(じっそう)をみきわめず、よい加減に、小善に誇って自分の実相はこんなものだ、小善ぐらいのことで実相の全体が開顕(あらわ・かいけん)れたというふうに考えて、自己のうちにある立派な神性(しんせい)の全体を認め顕(あら)わそうとしない。
だから懺悔の心のないもは、本当の『神性』という無限の尺度(しゃくど)を自分の中に握っていない。換言(かんげん)すれば自分のうちにある、立派な本然(ほんぜん)の神性(かみすがた)があらわれていない、この、本然の神性が顕われることが『赦された』という状態であります。
まことに『赦された』と申すことは罪の消えた状態を言うのでありまして、たんに『勘弁してあげる』と口先でいってもらっただけで、本然の神性が顕われておらず、したがって罪が消えてはおらないで、再び罪を犯したくなるような状態を指すのではないのであります。
自己本然の神性があらわれた状態こそ罪が赦され消去された状態でありまして、たんに口先で『あんたの罪を勘弁してあげる』といってもらうことを、罪が赦されたなどと考えては大まちがいであります。本当に罪が赦され消去したならば、罪の顕われである病は消えてしまう。
それで神癒治療者は罪を消す人ともいえれば、相手の神性を開顕する人ともいえるのでありまして、施念者ばかりが力(りき)んでみましても、相手に懺悔の心をもって真理を受け入れてくれる心がなければ効果が少ないのであります。
遊女(ゆうじょ)マリア・マグダレーナは自分の罪を悔いた。悔いたというのは、自分の『神性』という尺度で計(はか)ってみて、『これでふつうの人間の寸法だけあります』といって世間に売り出していたけれどもそれは自他を欺瞞(ぎまん)していた、本当の『自分の神性』という尺度で測ってみれば実に、足りない足りない自分であった、どうもニセ尺(じゃく)で測って足らぬ寸法のものを世間に売り出してすまなかったとわかるーこの『すまなかった』とわかるときには、自分の心のうちにチャンと『本当の神性の尺度』が握られているー言い換えると自己の本当の神性が開顕(かいけん)しているーこれすなわち罪が消えた状態、罪が赦された状態でありまして、一たび本当に今までの自分が悪かったとわかった以上は、もう罪が消えたのでありますから、心を過去の罪にとらえしめず、神らしい自覚で神らしい行いにズンズン突進してゆけばよいのであります。これ懺悔した遊女マグダレーナがキリストから『なんじの罪は赦された』といわれたゆえんであります。
以上
ブログのノルマにと安直な考えで打ち込んでたら、読むだけのときとは違う深みに少しだけ気付きました。
『真理』って言葉は、よく宗教系のところで見るからチョッと違和感を感じてましたが、経済も含めてそれそのものを書かれてる感じで、魅力もあってただ読みたくなる。
そんな印象なんですよね。
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